政治経済学再入門 43 固定資本と流動資本

2010.12.06 Monday
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    3 固定資本と流動資本、年間剰余価値率

     

     生産資本のさまざまな部分は、すべておなじように回転するのではありません。生産資本のうち機械や建物のように、その全部が生産に寄与するのですが、その価値を1回だけでなく何回かの期間にわたって、それが消耗するのに応じて、少しずつ新しい生産物に移して行く資本部分を、固定資本といいます。これにたいして、生産資本のうち原料や労働力のように、その価値をすべて1回にあたらしい生産物に移す資本部分を、流動資本といいます。

     労働力に支出された資本部分(=可変資本、=賃金)は、いうまでもなく、資本の生産過程で消費されるとともに、その価値に剰余価値を加えただけの大きさの価値を、新しく生み出し、それが生産物になります。したがって、この資本部分は、厳密に言えば、現料に支出された資本部分と同じ意味では、その価値を生産物に「移転」するとは言えません。しかし、この資本部分は、いま剰余価値を度外視すれば、資本が一回だけ回転すれば、生産物の流通とともにその全部が回収されて、ふたたび労働力に変化するわけです。
     したがって、労働力に支出された資本部分と現料に支出された資本部分とは、価値の形成と増殖に関しては違う役割を果たしますが、価値の回転のしかたに関しては共通の性質のものであって、固定資本にたいしてともに流動資本を形成するのです。

     

     固定資本が1回の回転をするあいだに、流動資本は数回の回転をします。ですから、資本の一回の生産過程の生産物である商品資本(W’)の価値は、仝把蟷駛椶里Δ舛修寮源魂當で新しい商品に移された部分の価値、⇔動資本の価値、剰余価値から成っています。

     不変資本と可変資本の区別が、資本による労働力の搾取の過程でそれぞれが果たしている役割の違いからなされるのに対して、固定資本と流動資本の区別は、資本の回転のしかたの違いからなされるのです。この2つの区別の違いと関連を表  にまとめました。

     

     

    搾取過程で果たす役割よる区分

    ◆資本の構成◆

    回転のしかたによる区分

     

    不変資本

    工場の建物

    固定資本

    機械・設備

    原料・燃料・補助材料

    流動資本

    可変資本

    労働力を買う賃金

     

     

     

     







     可変資本の大きさと剰余価値率とが一定ならば、一年間につくりだされる剰余価値の量は、一年間のその資本回転量によってきまります。たとえば、ABという2つの資本があって、そのいずれも資本額100億円、その可変資本部分は30億円、剰余価値率が100%Aの資本は1年間に1回の回転、Bの資本は1年間に2回の回転をするとしましょう。

     そうすれば、この場合同じ資本額でありながら、Aの資本は1年間に30億円の剰余価値を、Bの資本は1年間に60億円(=2回転×30億円)の剰余価値を手に入れます。ただし、資本の回転が早まると、流動資本のうち原料や燃料などに支出される部分の大きさもそれに応じた影響をうけますが、ここでは度外視します。

     このように、可変資本に対する一年間に生産された剰余価値の比率を、年間剰余価値率といいます。いまの例で言えば、Aの資本の年間剰余価値率は、30/30=100%Bの資本のそれは60/30=200%です。

     資本の流通を早めることそれ自体は、すこしも新しい価値を作り出しません。しかし、資本家は資本を早く回転させて、その商品を速く実現すれば、それだけ同じ大きさの資本でより多くの労働者を雇うことができ、その労働者の労働によって、一年間により多くの剰余価値がつくられるのです。

     ここから、資本主義のもとでは、剰余価値=利潤の形成があたかも流通過程にも依存しているような仮象[1]が生まれます。 

     以上で明らかなように、資本家は、年間剰余価値率をたかめようとして、できるだけ資本の回転をはやめようとつとめます。主に次のようなやり方によって生産期間または流通期間を縮め、資本の回転期間を縮めようと努めます。

     
     (1)第1に、資本家は、労働日をのばすことによって、生産期間を縮めようとします。たとえば、いま8時間労働日のもとで50日かかった仕事は、労働日を10時間に伸ばせば40日間ですみます(50日×8時間=40日×10時間、これをn1t1=n2t2として、回転速度を一製品あたりt1t2とすれば、「t1からt2に回転速度が上がった」ということにします。また、回転期間を一製品あたりn1n2とすれば、「n1からn2に回転期間が短縮された」ということにします。あとで、使います)        

     
     (2)第2に、資本家は、労働の生産性をたかめることによって、生産期間を縮めようとします。たとえば、自動車生産のロボット化など飛躍的に生産性があがり作業工程が最小限・短縮化されています(2007年大ロボット博、国立科学博物館の歴史的展示群)。

     
     (3)第3に、資本家は、労働の強度をつよめることによって、生産期間を縮めようとします。たとえば、前の述べたフォード・システムのもとでは、機械の運転が早められ労働の強度がつよめられるにつれて、生産過程はそれだけ急速に進行させられます。

     
     (4)第4に、資本家は、新しい技術を応用して労働が中断されざるを得ない時間を短くすることによって、生産期間を縮めようとします。たとえば、原皮がなめされる過程は以前には何週間も続きましたが、化学的処理方法がもちいられると数時間ですむようになりました。

    5)第5に、資本家は、運輸・通信・商業組織などを改良することによって、流通期間を縮めようとします。たとえば、「公共投資」によって全国への新幹線・航空・高速道路網の普及、電話・FAX・インターネットの普及は、資本の流通を早め、資本の利益に役立てられました。しかし、地方ではまた、資本のあいだの競争は、商品の販売についての困難をまし、流通期間が縮まるのを妨げます。

     いずれにせよ、以上のようなやり方で、資本の回転は早められるのです。この全体のやり方をすすめるのが、「コンピュータ生産様式」です。

     

    ◆コンピュータ生産様式(『新版 現代経済学入門』松石勝彦著、2004年、青木書店より要約)

     コンピュータ生産様式は、ユーアやマルクスの見た「自動装置」「自動メカニズム」「自動機械体系」を特徴とする機械生産様式と全く違う。それらの意味するところは、中央の単一の蒸気機関によって伝導機構を介して動力を得た自動ミュールが、自動的に動いて自動的に紡績するということであり、同じ蒸気機関から動力を得た力織機が自動的な布を織るということである。そして、機械生産様式の労働(労働様式)は、このような自動機械体系を見張り、故障から守ることである。「自分の目で機械を監視し、自分の手で機械の誤りを訂正する新しい労働」(『資本論』p395)である。

     コンピュータ生産様式は、コンピュータがこの機械の管理・制御労働にとって代わって、機械を制御し生産を行う生産様式である。コンピュータ生産様式の特徴的な労働手段はコンピュータであり、これが機械生産様式の労働手段である自動機械体系、自動装置、生産システムを制御する。コンピュータの生産様式の労働(労働様式)は、コンピュータの管理・制御労働である。作業機械の管理・制御労働から、作業機械の制御機械(コンピュータ)の管理・制御労働に代わるのである。コンピュータ生産様式は、現代の主要な産業において成立する。図参照。.灰鵐團紂璽神重粥↓∪侈化学工場のコンピュータ生産、H焼蛎旅場のコンピュータ生産、ぜ動車のコンピュータ生産。



    [1] 仮象。ものごとの本質は、われわれが直接感覚によって認識できる表面的な現象を通じて現れます。ところが、この現象のなかには、本質をゆがめて、あるいは逆立ちして現れるものもあり、これを仮象といます。

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    政治経済学再入門 42 社会的総資本の再生産と流通

    2010.12.06 Monday
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      第 10 章 社会的総資本の再生産と流通

       

       

      1 資本の循環と回転

       資本主義は発達した商品流通を前提にしていて、資本の生産と流通とは切り離せないように結びついています。したがって、資本主義経済の全機構を理解していくには、資本の生産過程を考察したのに引き続いて資本の流通過程を考察しなくてはなりません。

      ここでいう流通とは、貨幣を仲立ちとした諸生産物の交換の総体のことです。流通過程は、直接的な物々交換とはちがって、貨幣を仲立ちにしておこなわれるため、商品や資本の価値を商品の姿から貨幣の姿に変える「販売」と、貨幣の姿から商品の姿に変える「購買」との、2つの独立した行為から成り立っています。したがって、「販売」と「購買」とは時間的にも場所的にも分離し、売った人がつぎにかならず買うとは限らないことになり、そこから恐慌の可能性がうまれます。

      資本家は、図に示すように、生産を始めるにあたって、たとえば、100億円の貨幣(G)をもってそれだけの額の商品(W)すなわち70億円の生産手段(Pm)と30億円の労働力(A)とを買い入れます。

      つぎにこれをあわせて、生産(・・・P・・・)を行い、はじめより大きな価値をもった新しい商品(W’)を生産します。最後に、それを売ってはじめより大きな額の貨幣(G’)を手に入れます。

      このように、資本は、はじめ貨幣の姿(形態)をとり(貨幣形態)、つぎに生産の諸要素という姿をとり(生産資本)、最後に商品の姿をとり(商品資本)、ついで再び貨幣の姿に戻ってくるのです。

      個々の資本も、社会全体の資本も、実はこの3つの姿を同時にとって存在しています。すなわち、その一部分が貨幣資本であるとき、他の一部分は生産資本であり、また他の一部分は商品資本です。このように資本がその循環の過程で同時にちがった姿をとる存在様式にこそ、すでに3つの姿をとった資本がそれぞれ自立して存在する可能性があります。

        

       
                               

      貨幣

      資本

       

       

        このようにつぎつぎと自分の姿を変えていく資本の運動を、資本の循環といいます。

       資本がたえず循環する過程で、はじめて貨幣は資本に転化されるのです。このように、資本は、静止しているものとしてではなく、つねに運動しているものとして見てこそ、はじめその本質が理解できるのです。

       資本は一回限りではなく、繰り返し循環しています。たえず繰り返される過程として見た資本の循環を、資本の回転といいます。また、一回の回転にいる時間を、資本の回転期間といいます。資本の回転期間は、資本が生産過程にある時間すなわち生産期間と、資本が流通過程にある時間すなわち流通期間から成り立っています。

       
       

      2 流通費

       

       資本主義の商品流通にとっては、一定量のいろいろな資材や労働の支出が必要です。流通過程の業務と結びついているこれらの支出を、流通費といいます。流通費を考察するときには、つぎの2つの種類の費用を区別しなくてはなりません。

       

      1)価値を生産しない流通費

      1は、純粋の流通費であって、商品の売買及び資本主義制度の特質と直接にむすびついている費用です。たとえば、商業用の建物、商業労働者の賃金、広告、簿記、貨幣の製造、ATM経費などへの支出がそれであって、流通費の大部分をしめています。純粋の流通費すでに生産された商品の価値の実現 [1](または形態変化)のための費用にすぎないのですから、その支出はなんら商品の価値を作り出しません。したがって、それは社会で生産された剰余価値の一部分によってまかなわれるのです。

        それゆえ、資本家は、全体として純粋の流通費をできるだけ節約しようとします。しかし、他方では、資本主義の発展につれて、資本のあいだでの競争が激しくなり、商品の販売も困難が増すので、広告などの純粋の流通費が増大します。このことは、資本主義のもとでの浪費の増大を意味するものです。

       

      2)価値を生産する流通費

      2は、運輸費、保管費、包装費など、であって、生産過程が流通過程の内部にまで延長されていることと結びついている費用です。たとえば、商品の運輸のための施設や車両、運輸労働者の賃金、商品の保存のための建物、などへの支出がそれです。これらの支出は、ほんらい追加的生産過程をなすものであり、生産過程がその技術的な性質によって流通過程の内部にまで延長されたものです。ですから、この過程にたずさわる労働は、新しく価値(労働力の価値プラス剰余価値)をつくりだし、これらの支出は、それだけ商品の価値をたかめます。

        しかし、資本主義のもとでの商品の販売の困難が増し、商品の販売の過程が不正常に引き伸ばされるのにともなって、たとえば、商品にその品質維持に必要以上の余計なきらびやかな包装をするというようにこれらの費用のかなりの部分は、純粋の流通費に転化してしまうのです。消費期限をごまかしたり、ポストハーベスト農薬で“新鮮さ”を保ったりすることもその一つと考えられます。


      [1] 実現。商品が実際に売れること、いいかえれば市場で商品が貨幣に形態転化すること。

       

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      政治経済学再入門 41 資本主義的蓄積の一般法則

      2010.12.06 Monday
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        6 資本主義的蓄積の一般的法則

         

         すでに述べたことから明らかなように、資本の蓄積の過程とは、資本主義の搾取関係そのものが拡大再生産されていく過程に他なりません。すなわち、資本の蓄積がすすむにつれて、個々の資本の集積と集中をともないながら、資本の規模が拡大し、労働者の数が増大し、資本の搾取が広がります。

         それと同時に、労働の生産性が増大して資本の有機的構成が高まり、相対的過剰人口が累進的に形成され、それによって現役労働者の労働条件と賃金が圧迫され、資本の搾取がつよまります。そうして、資本の蓄積の「結果」であるこれらのことが、また資本の蓄積をおしすすめる「原因」にもなるわけです。

         このようにして、資本の蓄積が加速度的に進み、資本の搾取が量的にも質的にも拡大・強化されるにつれて、必然的に、社会の一方の極には、少数の資本家階級の手に巨大な富が蓄積され、同時に彼らの奢侈と寄生生活・浪費と怠惰が蓄積されていくのにたいして、社会の他方の極には、その富をつくりだす多数の労働者階級の失業と貧困が蓄積され、同時に彼らの労働苦・奴隷状態・無知・粗暴・道徳的堕落が蓄積されていきます。つまり、資本主義的な「富の蓄積」は、かならずそれに対応する「貧困の蓄積」をともない、それを条件としているのであって、この両者はたがいに制約しあい、たがいに生み出しあっているのです。

         マルクスは、資本の蓄積過程の内的傾向のこのような分析にもとづいて、資本主義的蓄積の一般的法則を、つぎのように定式化しました。

         「社会的富、機能する資本、その増加の範囲と勢力、したがってプロレタリアートの絶対的な大きさとその労働の生産力、これらのものが大きくなればなるほど、産業予備軍も大きくなる。自由に利用しうる労働力は、資本の膨張力が発展させられるのと同じ原因によって発展させられる。こうして、産業予備軍の相対的大きさは、富の諸力といっしょに増大する。しかしまた、この予備軍が現役労働者にくらべて大きくなればなるほど、固定した過剰人口はますます大量になり、その貧困はその労働苦に比例する。最後に、労働者階級の極貧層と産業予備軍とが大きくなればなるほど、公認の受給窮民層もますます大きくなる。これが資本主義的蓄積の絶対的・一般的法則である」[1]

         資本主義的蓄積の一般的法則は、剰余価値の生産という資本主義の基本的経済法則がいっそう具体的に展開されたものであり、それによって規定されている資本主義の生産と蓄積の敵対的性格から必然的にもたらされたものです。

         ところで、資本主義的蓄積の一般法則の作用は、資本家階級の「富の蓄積」に対応して、かならず労働者階級の「貧困の蓄積」すなわち貧困化を引起しますが、それは労働者階級の相対的および絶対的貧困化というかたちをとって現れます。

         労働者階級の相対的貧困化とは、労働者階級の状態(社会的地位)が資本家階級の状態にくらべてわるくなることであって、労働者階級があたらしく生産した価値(国民所得)のうち労働者の受け取る価値(賃金)の割合が小さくなるという現象となって現れます。

         労働者階級の絶対的貧困化とは、労働者階級の状態が自分の以前の状態にくらべて悪くなることであって、資本の搾取が拡大・強化されるのに応じて、労働日の長さ、労働の強度、労働災害、実質賃金の水準(およびそれと労働力の価値とのひらき)、完全失業および部分失業の大きさ、などという労働者の生活条件と労働条件の総体を具体的に表示する主要な諸要因のうちいくつかが悪くなるという現象となって現れます。

         労働者階級の相対的および絶対的貧困化は、恐慌と戦争の時期、産業予備軍を含む労働者階級の下積みの階層の状態、植民地や従属国の勤労者の状態の現象に、とくに集中的にしめされます。

        かつて、アメリカ帝国主義と日本独占資本は、「人民資本主義」とか、「福祉国家」[2]だとかいう「理論」を掲げて、「高度経済成長」といわれる資本の急速な蓄積過程が、「労資の利害を和解させ」て、労働者階級の状態をおのずとよくするという大宣伝を繰り広げ、また修正主義者たちも、マルクスの「貧困化論は古くさくなった」など言って、この大宣伝に迎合しています。
         しかし、資本主義的蓄積の一般的法則は、彼らの宣伝がまったくのまやかしでしかなく、資本の蓄積の進展はかならず「貧困、抑圧、隷属、堕落、搾取の増大」をともない、労働者階級と資本家階級との矛盾を極度にまではげしくしていくこと、したがって、労働者階級が自分の状態を根本から改善するためには、資本主義経済制度そのものを打ち倒すほかに道はないことを、明らかにしているのです。ただし、そのためには一体となった政治・経済・外交などの分野で力関係を変革しなければなりません。その変革の日まで改革へのプログラムと抜本改革の両方が同時に語られなければなりません。



        [1] 『資本論』

        [2] 「福祉国家論」。「資本主義のもとで福祉国家を実現する」という理論のことです。自民党や民社党がこれを唱えました。

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        政治経済学再入門 40 相対的過剰人口

        2010.12.06 Monday
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          5 相対的過剰人口の存在形態と役割

           

           相対的過剰人口は、基本的にはつぎの3つの形態をとって存在しています。

          1)流動的過剰人口

            生産が縮小されたり、新しい機械がとりいれられたり、企業が閉鎖されたりしたために、ある期間働き口を失った労働者からなります。その一部は、生産が拡大されるときには再び就業します(映画『モダン・タイムス』のチャップリン、『ブラス』の労働者、ユアン・マクレガーなど)。

          2)潜在的過剰人口

            追い落とされて生活が困難なった小生産者、とりわけ貧農と雇農からなります。彼らは、自分の小経営と結びついているために表面上は失業者としてあらわれませんが、実は資本主義が農村に侵入するにつれて、もう脳器用ではやっていけなくなり、買い手が見つかり次第自分の労働力を売ろうと待ち構えています。日本の高度成長期には、農村の次男、三男はその代表的な人たちでした。(マルクスは『資本論』のなかで、潜在的過剰人口を、資本主義の農業もとで過剰になり、ふたたび農業部面に雇用される見込みがないので、工業部面に雇用されようと待ち構えている農村のプロレタリアートと言っています。)

          3)停滞的過剰人口

            定職をもたず、きわめて不規則にしか就業しない労働者からなります。たとえば、家内労働者や日雇い労働者などがそれであって、彼らはいわゆる半失業者であり、普通の水準よりいちじるしく低い賃金にしかありつけないのが特徴です。

          4)窮民

            なお、これらの基本的形態とならんで、そのそれぞれのなかに、相対的過剰人口の最低の層をなしている窮民が存在します。彼らは以前から生産から押し出されてしまって、いわゆるルンペン・プロレタリアート、働く能力を失った廃疾者・浮浪者・犯罪者・売春婦・孤児などからなっており、この人たちの一部は、よぎなく乞食をしています。また、生活保護者層もこの部類にはいり、]働能力のある人、⇔輙遒系働能力のない人、転職ができない人、高齢者、労働災害障害者などです。生活保護者は現役労働者の廃兵院であり、相対的過剰人口の行き着く先です。



          ◆失業統計について

           資本主義諸国の政府統計は、主に流動的過剰人口しか「失業」として取り扱いません。ですから、実際の失業者は、政府の発表する数字よりはるかに多いのです。

           

           

           

           

           

           


           


           相対的過剰人口はなんとかして労働力の売り先をみいだそうとしている産業予備軍です。ところで、産業予備軍は、資本の蓄積を推し進めていくうえで、つぎのようなきわめて重要な役割を果たします。

          1)産業予備軍がいるおかげで、資本家は、産業循環(15章で詳しく解説します)の活況や繁栄の局面で、大量の労働者を一度にすきなだけ手に入れて、生産を急速に拡大することができます。また、資本家は、不況や恐慌の局面では、生産を縮小するようなときには、労働者をクビにして産業予備軍を補充します。つまり、産業予備軍とは、そのときどきの資本の要求に応じて、労働力を吐き出したり、吸い込んだりできる、予備のプールとなるのです。

          2)産業予備軍がいるおかげで、資本家は、就業している現役労働者を圧迫し、搾取を強めることができます。すなわち、工場の外にはいつでも代わって雇われたいと待ち構えている人たちがいるわけですから、現役労働者は、資本家の押し付ける悪い労働条件にもがまんしなくてはならなくなり、労働日の延長や、労働の強化を余儀なくされます。ところが、労働日の延長、労働の強化は、また逆に産業予備軍を増大させる原因となります。

          3)産業予備軍がいるおかげで、労働力の供給は過剰になり、賃金の水準が押し下げられる傾向が生まれます。産業予備軍は、現役労働者の賃上げ闘争にしっかりぶら下がっている重石です。そこで、資本ははじめて労働力を実質的に支配できるようになり、その急速な拡大の時期においてさえ、賃金の無制限の上昇を抑制できるのです。

           以上のようにして、産業予備軍は、資本の蓄積の結果生まれたものですが、それは逆に「資本主義的蓄積のテコ」となるのであり、「資本主義的生産様式の一つの存在条件」をなしているのです。

           このように産業予備軍は、資本主義の発展に欠くことができない役割を果たしますから、資本家はなんとかこの予備軍のプールを満水にしておこうとして国家政策も利用します。日本では、1960年代、政府の「農業構造改善事業」「労働力流動化政策」などは、「近代化」の煙幕で農民の6割を予備軍にしようというところに狙いがありました。そのうえ、「日韓条約」で韓国人までこれに引き込んでいきました。

          最近では、「非正規雇用」「派遣労働者」施策は、産業予備軍をつくる一つの方策だと考えられます。

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          政治経済学再入門 39 資本の有機的構成の高度化

          2010.12.06 Monday
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            JUGEMテーマ:学問・学校
             

            9章 資本の蓄積(2

             

            資本の有機的構成の高度化と相対的過剰人口の形成

             

             資本主義のもとでの再生産過程は、必然的に、個々の資本の集積と集中をともなった資本の蓄積の過程として展開されます。ところで、この過程は、たんに資本の規模を量的に拡大するだけではなく、資本の内部の構成に質的な変化をもたらします。

             資本家は、生産にあたって、必ずその資本を、工場や機械や原料などの生産手段を買う不変資本(c)と労働力を買う可変資本部分(v)とに支出するわけですが、この2つの部分の構成割合は、資本のあいだや部門間で、決して一様ではありません。そこで、生産手段の量とそれを動かすのにいる労働力の量との関係を反映するかぎりでの、不変資本と可変資本との価値の構成を資本の有機的構成といいます。

             たとえば100億円の資本があって、そのうち80億円が機械・建物・原料などに、20億円が賃金に支出されたとするならば、この資本の有機的構成の比率は、80c : 20v、すなわち4:1です。

            ところで、この実体を実際に調べると、(表 )資本の蓄積の過程で、資本の規模が大きくなるにつれて、不変資本部分の割合が増えていき、可変資本部分が減っていくのです。このことを資本の有機的構成が高まる(高度化する)といいます。

             

             どうして、そうなるのでしょうか。

             それは、剰余価値率を高めようと資本家が互いにあらそって技術の改良につとめるからです。技術を改良するためには、まず新しい機械を取り入れたり設備を拡大したりするのにむける資本を増やさなくてはなりませんし、また、それによって労働の生産性があがると、同じ量の労働力がより多くの原料を加工するので、それにおうじて原料を買う資本もふやさなくてはなりません。
             すなわち、技術の改良は、同じ量の労働力とむすびつけられる生産手段の量を急速に増大させます。不変資本は相対的に増え、可変資本は相対的に減り、資本の有機的構成が高まるのです。この比を仮にc’としておきます(あとに述べる利潤率の説明に使います)。

             (ここでは、不変資本の構成比率が相対的に高まることが「資本の有機的構成の高度化」ということになっていますが、「有機的」という言葉の意味についての説明がありません。)


             そこで大切なことには、資本の蓄積の過程は、このように資本の有機的構成を高めながら進むために、実は、労働者階級の一部分を失業に陥れます。資本の蓄積の過程は、資本の有機的構成を高め、可変資本部分を相対的に小さくします。ところで、労働力に対する需要は、資本全体の大きさによってではなく、その可変資本部分だけの大きさによって決まります。したがって、資本の蓄積の過程は、労働力にたいする需要を相対的に減らすわけです。ところが他方では、資本の蓄積の過程は、労働者階級の数すなわち労働力人口を増大させます。

             というのは、

             第1に、資本の蓄積の過程でますます多くの小生産者や小資本家が没落して労働者階級に加わってくるし、

             第2に、労働者階級自身が自然的に増大するからです。

            したがって、「資本が増えるのは、プロレタリアートが、すなわち労働者階級が増えること」[1] なのです。

             以上の結果、図 に示されるように、資本の蓄積の過程が進むにつれ、必然的にある時点で労働力人口の一部分は自分の労働力を売り先(勤め先)を見つけることができないで、相対的過剰人口を形成します。これが、就業している現役労働者にたいして産業予備軍といわれるものであり、いわゆる失業者です。資本蓄積が進み、資本が巨大になった先進資本主義国において、むしろ大量の失業が発生し、高失業率に悩まされています。皮肉にも、資本蓄積こそ失業の原因なのです(『新版 現代経済学入門』p228)。

             

             要するに、資本の搾取がつよめられ、労働者がより大きな剰余価値をうみだすほど、資本の蓄積がそれだけ大きくなり、したがって資本の有機的構成がいっそう高まりますが、それに応じて、相対的過剰人口がいっそう増大するのです。
             それゆえマルクスは、「労働力人口は、それ自身が生み出す資本蓄積につれて、ますます大量にそれ自身の相対的過剰化の手段を生み出す」
            [2] と述べ、これを「資本主義の生産様式に特有な人口法則」[3] と呼びました。

             もちろん、こういったからといって、文字通り図式的に、資本の蓄積の過程では、どんなときでもただ一途に失業者が増えていくというふうに理解してはなりません。

             資本の蓄積過程で、可変資本は相対的には小さくなっていくとしても、絶対的には大きくなるのですから、たとえば好景気のときのように生産と資本の規模が急速に拡大されるにつれて可変資本も急速に大きくなる一時期には、かえって失業者がへることもあることに注意しなくてはなりません。

             しかし、長期にわたってみれば、資本の有機的構成がたかまるにつれて、失業の規模も大きくなっていく傾向にあるのです。失業は、それ自体、次に述べる労働者階級の貧困化の重要な形態の一つです。

             以上のように、「相対的過剰人口」というのは、決して国土や資源などの自然的条件にたいして「過剰」ということではなく、あくまで資本の価値増殖欲が必要とするのにたいして「過剰」ということであって、失業や貧困の原因が資本主義の搾取制度そのものに根ざしていることは明らかです。

             ところが、資本家階級は、そのことがハッキリしてしまうと都合が悪いので、(意識していると否とに関わらず)、それをごまかすためにさまざまな御用理論(体制擁護理論)をつくりだしてきました。なかでも有名なのは、マルサス[4]の「自然的『人口法則』」の理論です。

             

            【マルサスの“理論”】

             そもそも人間社会が発生して以来、人口は、124816というように幾何級数的(指数関数的)に増えていくのにたいして、生活手段(とくに食糧)は、12345というように算術級数的にしか増えていかない。そこからますます大量の人口が「過剰」になって、失業と貧困に陥らざるを得ない、したがって、戦争による殺し合いもその解決の一つである、という考えです。

             マルサスは、失業と貧困の原因はもともと「自然的」なものであって、労働者が失業と貧困にさらされているのは、彼らがみさかいもなく「幾何級数的」に子どもを生んだせいであるから、いわば「自業自得」というほかはない、そう思えば人口を大量にへらしてくれる戦争や伝染病の流行などは神の恩恵というべきである、という途方もなく支配者の政策を支持する主張をして、資本家と地主らの喝采を浴びました。

             

             


             しかし、このマルサスの理論は、真実とは縁もゆかりもありません。もともと技術の改良による社会の生産力の発展は、人口の急速な増大を上回る速さで生活手段の量をふやしていけるのですが、資本主義社会では、資本の蓄積のしくみがそうなるのを妨げているのです。実は、少子化問題はここにメスを入れないと根本的に解決しないのです。

             ところで、日本の資本家も、マルサスとおなじように、戦前から今日まで一貫して、「人口が過剰なのは、国土が狭く資源が乏しいからだ」と宣伝して、自分たちの醜い直接的対外侵略や経済的侵略を「合理化」してきました。
             私たちは、ここで失業と貧困のほんとうの原因をつかむことによって、これらのゴマカシの理論を徹底的にうちやぶらなくてはなりません。



            [1] 『賃労働と資本』

            [2] 『資本論』

            [3] 『資本論』

            [4] マルサス(17761834)。イギリスの僧侶で、経済学者。18世紀末から19世紀の初期にかけて、主に当時の地主階級の利益を擁護する論陣をはり、リカードゥなどと対立して、イギリス古典派経済学を俗流化し、科学の見地から外れさせた。これは一見現実に即した理論のようではありますが、科学はありません。一種の「マーフィーの法則」のようなものです。

            政治経済学再入門|-|-|-|-|by ネコスキイ

            政治経済学再入門 38 資本の拡大再生産

            2010.12.06 Monday
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              資本の拡大再生産 = 資本の蓄積

               

               

               資本の拡大再生産においては、資本家は、手に入れた剰余価値の一部分を、元の資本に付け加え、追加の生産手段と追加の労働力を買い入れて、生産の規模を大きくするのに当てます。このように、剰余価値の一部分を資本に付け加えること、すなわち剰余価値の資本への転化を、資本の蓄積といいます。ですから、蓄積の源は剰余価値です。

               資本家はつねに争って資本の蓄積をしようとします。なぜでしょうか。

               

               ,修隆靄榲な動機(クラッシック・モチベーション)は、資本家の剰余価値に対する狼のような欲望です。そのため、資本家は、できるだけ資本を蓄積して、生産の規模を拡大し、いっそう大きな剰余価値を手に入れようとつとめるのです。いっそう、大きな剰余価値を手に入れるならば、資本家はそのうちから自分の個人的消費にあてる部分をふやして、より贅沢三昧に生活しながら、しかもなおつぎの蓄積にあてる部分をいっそう急速に増やして、ますます多くの労働者を搾取し、ますます大きな剰余価値を手に入れていくことができるわけです。

               ∋駛椶涼濱僂推し進められるもう一つの動機(コンペティティヴ・モチベーション)は、資本家のあいだの激しい競争です。資本家は特別剰余価値を手に入れようとして、互いに争って自分の企業の技術を改善しようとしています。ところで、新しい技術を大規模に採用するためには、いっそう大きな資本が必要であり、したがって資本を絶え間なく蓄積しなくてはなりません。この激しい競争のなかでは、結局、より多くの資本を蓄積した大きな資本が小さな資本に打ち勝つのです。

              もし、蓄積を怠ったりしようものなら、そんな資本家はたちまち「弱肉強食」という資本どうしの掟によって没落してしまいます。

               このようなわけで、資本による剰余価値の無制限な追求、すなわち「生産のための生産」は、いまや「蓄積のための蓄積」となって展開されます。それゆえ、資本主義のもとでの再生産過程は、必然的に資本の再生産過程なのです。

               全社会的に(日本国内と仮定して)、資本の蓄積すなわち資本の拡大再生産がすすむなかで、個々の資本の規模も大きくなります。それは、個々の資本の集積と集中とによっておこなわれます。

              資本の集積とは、その企業でつくられた剰余価値を蓄積した結果、資本の規模が大きくなることです。それに対して、資本の集中とは、いくつかの企業の資本が合同してより大きな一つの資本になる   
              結果、資本の規模が大きくなることです。

               それゆえ、資本の集積が、もともとその企業で生産される剰余価値の大きさによって制限されているのにたいして、資本の集中には、そのような制限がないわけです。個々の資本は、ただ集積によってだけではなく、競争のなかで落ちぶれた企業を自分の企業に合併するとか、または大企業どうしが協定を結んで合同することで、集中によって資本の規模を大きくします。資本の集積と集中とは、資本の蓄積の結果であるとともに、またその発展をいちじるしく促進します。

                

               ところで、資本主義のもとでは、大きな資本をもつ大企業のほうが、小さな資本を持つ小企業よりも多くの決定的に有利な点をもっています。

               たとえば、小企業にくらべて大企業は、

               第一に、いっそう新しい機械や技術を大規模にとりいれることができ、

               第二に、いっそう広範囲にわたって分業や労働の専門化をおこなうことができ、

               第三に、競走上の重要な武器である銀行融資などの信用を有利にうけることができます。

               したがって、資本の蓄積過程で個々の資本の集積と集中とがすすむにつれて、少数の大企業がますます大きくなり、多数の中小企業が没落していきます。

               そして、ついには、巨大な資本をもった少数の資本家が、資本家どうしの競走上の決定的な優位に立って、おもな産業諸部門の生産を独占し、また大銀行をも動かして、一国の経済全体を支配し、何千万という労働者の運命をにぎるようになります。日本の高度成長もまた高蓄積によるものでした。そして、資本蓄積は国富の増大となり、日本はGDPで世界大2位の経済大国になりました(『新版 現代経済学入門』松石勝彦、青木書店、p228)。

                

               

                これがいうまでもなく独占資本です。

               資本の自由競争にもとづく資本の集積と集中と進行が、「その一定の発展段階で独占に導く」[1]ことがわかります。

               以上のように、資本の集積と集中が進むにつれて、中小資本家が大量に没落し、農民や手工業者も労働力を売る資本に従属したプロレタリアートになっていきます。だから、「プロレタリアートは、人口中のあらゆる階級から補充される」[2]といわれるのです。

               こうして、資本の拡大再生産=資本の蓄積の過程は、少数の搾取する資本家と多数の搾取される労働者とのあいだの溝を深め、その階級的な矛盾を激しくします。

               しかし、それと同時に、生産と資本の集積と集中によって、ますます増大する多数の労働者が、資本主義の大企業や工業の中心地にあつまることになり、その結果、資本家階級と闘争するために労働者階級が団結し組織化されることが、いっそう容易になるのです。



              [1] 『帝国主義論』

              [2] 『共産党宣言』

              政治経済学再入門|-|-|-|-|by ネコスキイ

              政治経済学再入門 37  資本の単純再生産

              2010.12.06 Monday
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                第 8 章 資本の蓄積 (1

                 

                生産と再生産

                 どんな社会においても、人間は、毎日、毎年、かならず衣・食・住・道具などの財貨を消費して生活していますが、他方では、同時に労働に頼ってそれらを生産しています。社会は、消費をやめることができないのと同じように、生産をやめることができません。社会が存続し発展するためには、財貨が一回かぎりでなく、絶えず繰りかえし生産されなくてはならないわけです。

                 このように、生産を絶えず繰り返しおこなうことを再生産といいます。すべての社会的生産過程は、その絶えず繰り返される流れのなかでみれば、同時に再生産過程です。ところで、生産の条件はまた再生産の条件であって、生産が資本主義の形態をとっていれば、再生産もおなじ形態をとります。

                 資本主義のもとでの再生産を考察するにあたっては、まず単純再生産と拡大再生産との2つの型の再生産を区別しなくてはなりません。

                 資本の単純再生産とは、前と同じ規模で資本の生産過程が繰り返されることであって、この場合には、支出された資本がうめあわされたうえで、剰余価値は全部資本家によって個人的に消費されます。言い換えれば、剰余価値は全部、資本家が自分の欲望をみたすために消費する生活手段を買うのにあてられるのです。

                 資本の拡大再生産とは、前より大きな規模で資本の生産過程が繰り返されることであって、この場合には、支出された資本がうめあわされるだけでなく、剰余価値の一部分がもとの資本につけくわえられ、あとの一部分が資本家によって個人的に消費されます。

                 資本家はいつでも狼のように剰余価値を追求して、生産の規模を拡大しようとしますから、資本主義のもとでの再生産は、実際には資本の拡大再生産であって、資本の単純再生産は理論的に抽象[1] してえられるものでしかありません。しかし、拡大再生産はかならずその基礎として単純再生産をふくんでいますから、資本の単純再生産を考察することによって、再生産の観点からみた、資本主義の生産過程のいくつかの本質的な特徴を、もっともはっきりとつかむことができるのです。したがって、まず資本の単純再生産を考察しましょう。

                 

                 

                 

                2. 資本の単純再生産

                 資本主義の生産過程を、単純再生産の観点からみるだけでも、

                第一に、賃金の真の源があきらかになります。

                一回の生産過程だけをとってみると、資本家は労働者が生産した商品を市場で売る前に賃金を支払うので、あたかも自分の手持ちの基金から賃金を労働者に前貸ししているかのように見えます。しかし、再生産の観点からみると、そのような外見はきえうせて、この労働力の売買の真の性格があきらかになります。すなわち、ある期間に労働者が新しい価値を生産しているとき、じつは前の期間に労働者が生産した商品は市場で売られて貨幣に変えられているわけです。

                このようにみるならば、賃金の真の源は、資本家自身の手持ちの基金ではなく、前の生産期間に労働者がつくりだした価値に他ならないことがわかります。「賃金の形態でたえず労働者の手に還流するのは、労働者自身によってたえず再生産されている生産物の一部分なのである」[2]。しかも、ほかの商品とちがって、労働力という商品の販売は、その消費がおわったあとで、すなわち労働者が一定の労働をしたあとで支払われます。それゆえ、賃金をちょっとみると資本家が労働者に前貸ししているように見えても、じつは労働者が資本家に前貸ししているのです。

                  

                2に、資本の真の源があきらかになります。

                 いま、毎年一億円の剰余価値をもたらす10億円の資本があるとし、資本家が、毎年その剰余価値の全部に等しい一億円を個人的に消費する場合を考えてみましょう。ところで、今、仮にその10億円の資本が少しも剰余価値を生まず、資本家は労働者の不払い労働を手に入れられないとしたならば、その10億円は、毎年1億円ずつ10年間ですっかり食いつぶされて、なくなってしまうにちがいありません。しかし、実際には、あきらかにそうはならないで、資本家は、毎年1億円ずつ消費して贅沢三昧に生活しながら、10年たとうと20年たとうと、あいかわらず10億円の資本をもって生産をつづけるのです。ということは、実際には、ただ単純再生産をつづけるうちに、資本家は10億円という最初の資本の価値を毎年1億円ずつ食いつぶしてしまったのであって、10億円という最初の資本の価値は、10年後にすっかり、それとおなじ量の剰余価値によっておきかえられているわけです。したがって、マルクスは、「単純再生産によって、長かれ短かれある期間ののちには、どの資本も必然的に・・・資本化された剰余価値に転化される」[3] といい、だから資本は「他人の不払い労働の物質化になる」[4] といっているのです。

                 このように資本とは、「労働者の不払い労働の物質化」なのですから、社会主義革命のときに、国家権力を握った労働者階級が、大資本家からその資本を有償ではなく無償で“収奪”したとしても、それは正当な根拠のある政治的行為です。これにたいして、小農民や小手工業者、小商人の小額の資産は、「他人の不払い労働の物質化」ではなくて、彼ら自身の労働の産物ですから、国家権力の保護をうけ、無償で収奪されることはありません。

                 このように、すべての資本の真の源がハッキリと捉まえられるならば、資本とは「資本家自身の労働の産物」であるとか、「資本家の節欲の報酬」であるとかいうブルジョア経済学の「理論」が、とせんなにひどいゴマカシであるかが見抜けるでしょう。

                 このように、資本主義の出発点における最初の資本が、たとえば資本家がみずから労働してためたものであったとしても、生産過程がたんにくりかえされているうちに、すべての資本はどれも必ず労働者の「不払い労働の物質化」になってしまいます。ところで、それではいわゆる最初の資本は、ほんとうはどこから出てきたのでしょうか。

                 はたして資本家がみずから額に汗してつくりだしたのでしょうか。実際には、けっしてそんななまやさしい造られ方をしたのではありません。それは、歴史的には、西ヨーロッパでは、15世紀のおわりから19世紀はじめにかけておこなわれ、わが国では、明治初期(19世紀の70年代と80年代)におこなわれた資本の本源的蓄積といわれる過程でつくりだされたのです。

                 資本の本源的蓄積の過程とは、古い社会の胎内から、一方では、最初の資本となるべきあるまとまった大きさの貨幣財産を社会の少数の人の手に集め、他方では、生産手段も生活手段ももたない「二重の意味で自由な労働者」を大量につくりだした過程です。これによって、はじめて、資本主義の生産がおこなわれる条件がうみ出されたのでした。この過程の歴史的な特徴は、当時の大地主と資本家とがその手に握っていた国家権力をもちいて、文字通り銃剣と焼鏝(やきごて)をつきつける暴力的なやり方で、推し進められたことです。

                 彼らは、後に重商主義といわれたさまざまな海賊行為をともなう暴力と特権にもとづく「商業」や、初期の植民地の略奪などによってぼろもうけをする一方、共有地を囲い込んで農民を住み慣れた土地から無理やり追い出したように、直接生産者から生産手段を力づくで収奪[5] し、その悪逆非道さは、「血に染まり火と燃える文字をもって人類の年代記に書き込まれている」[6] のです。このように実際には、そもそものはじめから、「資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をたらしながら生まれて」[7] きたのです。

                 

                3. 以上から、資本主義のもとでの再生産は、第3に、財貨の再生産であるだけでなく、資本主義の生産関係の再生産、言い換えれば、

                一方には資本家、他方には賃金労働者の再生産であることがあきらかになります。

                 すなわち、資本の単純再生産の過程では、つくられた商品はすべて資本家のものとなり、資本家はそれを売って、支出した資本の価値をうめあわせたうえで、剰余価値を手に入れます。

                 したがって、この剰余価値を全部個人的に消費しても、つぎの生産過程がはじまるときには、資本家はやはり前と同じように資本の所有者としてたち現れます。これにたいして、労働者は、いつも生活をしていくのにギリギリに必要な賃金を受け取るだけですから、つぎの生産過程が始まるときには、やはり前と同じように無産(生産物価値を受け取れない)の労働者としてたち現れます。

                 このように、資本主義のもとでの再生産は、かならず資本主義の生産関係または搾取関係の再生産であって、資本家はいつまでも資本家として搾取をつづけていくことができるし、労働者はいつまでも無産の労働者として自分の労働力を売らざるをえません。

                 「こうして、資本主義の生産過程は、それ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し、永久化する」[8] 

                 このようにみれば、「事実上、労働者は、彼が自分(自分の労働力)を資本家に売る前に、すでに資本に属している」[9] ことが明らかになります。すなわち、労働者はどこかの資本家に自分の労働力を売る前に、すでに資本家階級全体のものになっているのであって、労働者は、勤め先を変えてみたところで、ある資本家を他の資本家と取り替えるだけに過ぎません。こういうわけで、労働者は、世々代々にわたって、職場にいるときはもちろん、家庭で食事をしたり余暇を楽しんでいるときでさえ、ちょうど奴隷が「目に見える鎖」で奴隷所有者に繋がれていたのとおなじように、「目に見えない糸」で資本につながれていることが、いっそう深く理解されます。

                 



                [1]  理論的抽象。 自然と社会を問わず現実に存在するものは、多くの側面、要素が複雑に関連しあっています。これを認識するさい、ある部分や側面を理論上で一応きりすてて、ある側面、ある本質的な部分をぬきだし、あきらかにするのを理論的抽象の方法といいます。正しい抽象は、具体的な現象の認識よりも、いっそう科学的な本質の認識をもたらします。

                [2] 『資本論』

                [3] 『資本論』

                [4] 『資本論』

                [5] 収奪。財産とくに生産手段をうばいとることです。かつて資本の本源的蓄積過程で、直接生産者が収奪されたことによって、資本主義の搾取が成立しましたが、やがて資本家階級自身が(労働者階級によって)収奪されることによって、資本主義の搾取が、したがっていっさいの搾取が消滅します。

                [6] 『資本論』

                [7] 『資本論』

                [8] 『資本論』

                [9] 『資本論』

                政治経済学再入門|-|-|-|-|by ネコスキイ

                政治経済学再入門 36 階級闘争の学校

                2010.12.06 Monday
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                   労働者階級の賃金闘争および経済闘争の歴史的意義は、この闘争のなかではじめて広範な労働者がその階級的立場を自覚するようになることにあります。
                   この闘争は、労働者のもっとも身近で切実な生活要求にもとづく闘争ですから、かならず広範な労働者がこの闘争に引き入れられ、ストライキを含む多面的なたたかいが組まれ、団結と統一こそ労働者の最大の武器であることを身をもって学びます。
                   その闘争の炎のなかで、はじめて広範な労働者が階級意識にめざめ、自分たちの苦しみの根源が資本主義の賃金制度そのものにあることを理解するようになっていくのです。

                   だから、労働組合は、広範な労働者にとって「階級闘争の学校」となります。
                   そこで、経済闘争は政治闘争に発展し、不可避的にそれとかたく結合します。労働者階級は、「公正な賃金!」というスローガンのかわりに「(資本主義的)賃金制度の廃止」=「搾取の制度的廃止」という革命的スローガンをかかげて、かならず国家権力の奪取を目指す政治闘争にたちあがり、それに勝利するために、かならずみずからの強固な党、搾取の廃止を主張する共産党を作り出しきたえあげます。

                   20079月、アメリカのドキュメンタリー監督であるマイケル・ムーア氏の『シッコ(Sicko ビョーキ)』という映画が日本で公開されました。これは、イギリス、フランス、カナダの無償の医療保障に比して、アメリカの医療保障がいかに貧しいか、病的か(Sicko)を描き資本主義の現実を直視するなかから、「社会主義」への偏見を乗り越えてキューバの医療保障を取材するところまで行き着きます。イデオロギー闘争の分野でもありますが、こういうドキュメンタリーも階級闘争の学校への入り口となります。
                  政治経済学再入門|-|-|-|-|by ネコスキイ

                  政治経済学再入門 35 政治闘争への昇華

                  2010.12.06 Monday
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                     それゆえ、資本主義の賃金制度がもたらすこの傾向にたいして、労働者階級は、みずからの生活を向上するためにはもちろん、維持するためにさえ、必然的に、たえず賃金のひきさげに反対し、賃金のひきあげを要求して闘争にたちあがらざるをえません。したがって、労働者階級の賃金闘争は、基本的には「資本がさきだっておこなった行動に対する。労働の反対行動」として、資本主義および労働者階級の発生とともにはじまり、発展してきました。

                     それは、また、労働日の短縮や労働条件の改善や社会保障の実施などの諸闘争と不可避的に結びつき、それらとともに労働者階級の経済闘争のもっとも重要な部分となりました。この経済闘争を資本にたいして有効にたたかうためには、労働者はひとりひとりきりはなされていては、すこしもたたかえず、どうしても団結しなくてはなりません。労働者の闘争力とは、一にかかってその階級的な団結の度合いによって決まります。そこで、労働者は、たがいの思想や信条の違いを超えて、その経済的地位の改善のためにまず労働組合という組織をつくって団結します。労資の階級闘争の発展とともに、労働組合は、企業別組織から産業別組織、全国的組織へ、さらに国際的組織へとすすみます。
                     これは、資本主義の搾取が、中世のギルドなどとはちがって、個々的なものではなく、真の世界史的な意味で、一国的、国際的なものだからです。これにたいして、資本家階級の方も企業化団体に結集します。

                     

                     労働者階級の賃金闘争および経済闘争は、資本主義のもとでの賃金の低下をくいとめる基本的要因であり、労働者階級の状態をある程度まで改善できるきわめて切実で重要な意義をもっています。
                     しかし、賃金闘争および経済闘争には、もともと一定の限界があることを忘れてはなりません。

                    それは、もともと労働者が賃金と引き換えに自分の労働力を資本家に売らざるを得ないという資本主義の賃金制度のもとで自分の労働力を売る諸条件を改善しようとする闘争です。したがって、経済闘争だけでは、資本主義の賃金制度そのものをうちたおすのには、どうしても資本家階級から国家権力をうばいとる労働者階級の政治闘争が必要です。

                     また、そのような政治闘争と結合し、その階級闘争の長期的な展望のうちにおかれることによって、そのつどの経済闘争もまた着実に前進できるのです。それゆえ、マルクスは、「労働者階級はこれらの日常闘争(経済闘争)の究極の効果を過大視してはならない。自分たちはもろもろの結果とたたかいはしているが、それらの結果の原因とたたかっているのではないこと・・・ほ。彼らは忘れてはならない。したがって彼らは、一時の休みもない資本の侵害や市場の変化から絶えず発生してくるこれらの避けがたいゲリラ戦だけに頭をつっこんでしまってはならない」[1] といっているのです。

                     この大切な指摘を忘れ去って、労働者階級がただ日常の経済闘争をつみかさねていけば、資本家階級がただ日常の経済闘争をつみかさねていけば、資本家階級が国家権力を握っているともでも、資本主義を「構造的に」改良して労働者階級の状態を根本から変えられるという現代修正主義者たちの主張は、科学的社会主義の「革命」の立場から転落したものと言わなくてはなりません。



                    [1] 『賃金、価格、利潤』

                    政治経済学再入門|-|-|-|-|by ネコスキイ

                    政治経済学再入門 34 労働者階級の賃金闘争

                    2010.12.06 Monday
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                      労働者階級の賃金闘争

                       

                       剰余価値を狼のように追い求める資本は、搾取を強めるために、つねに賃金水準をできるだけ低めようとつとめ、また実質賃金をきりさげようとします。そのために、資本は、すでに見たように、大量の女性や児童や臨時工などをとくに差別した劣悪な賃金でこきつかったり、賃金の支払いにさまざまな格差をもうけて労働者のあいだの競争をつよめたり、機械の運転をはやめたり、消費者物価や勤労者の税金をひきあげたり、また、資本の増大の過程で大量の失業者をこしらえたりなど、ありあらゆるやり方で搾取を強めます。

                       マルクスは、『賃労働と資本』で、こうしたやりかたのいくつかに触れたのち、「要約しよう。生産的資本が増大すればするほど、分業と機械の使用がますます拡大し、・・・労働者のあいだの競争がそれだけ拡大し、彼らの賃金はますます縮小する」 [1]と指摘し、また、『賃金、価格、利潤』では、「資本主義的生産の一般的傾向は、賃金の平均水準をたかめずに、かえってこれを低める。つまり労働〔力〕の価値を大なり小なりその最低限界におしさげるものである」 [2]と結論しています。

                       ここにいう「労働力の価値の最低限界」とは、労働者とその家族がただ肉体的に生きていくのにぎりぎりに必要な生活手段の価値のことです。そうして、「もし労働力の価格がこの最低限界まで低下するならば、それは労働力の価値以下に低下することにな」 [3]ります。 なぜなら、そのばあいには、労働力の価値にふくまれていなくてはならない精神的要素はなくなってしまい、したがって、「労働力は萎縮した形態でしか維持されることも発揮されることもできない」[4] からです。それは、最近見られる傾向です。賃金がこの最低限界以下にさげられるので、労働者の平均寿命が短くなったり、出生率がさがったり、無知がはびこったりすることは、植民地や後進国にみられるだけでなく、最近の若者がワーキング・プアになったり、出生率がさがり少子化するなど、日本やアメリカなど進んだ資本主義国にもあらわれています。また、精神的要素の欠落という点では、自立神経失調者の増大、性的退廃など、「労働力の価値の最低限界」との密接な関連がみられる場合があります。

                       こういうわけで、つねに賃金の平均水準を食うや食わずのギリギリのところまで低めようとする、この資本の傾向にたいして、もしも労働者階級がたえず闘争し、全力をあげて自分の状態の改善をはからないとすれば、「彼らはみな一様に救いようのない敗残者の群れに落ちてしまうであろう」[5] とマルクスは言います。しかし、「救いようのない敗残者」になった場合は、死ぬしかないのでしょうか。少し打撃的に聞こえますが、その場合は、神ではなくわれわれが救うしかないのです。



                      [1] 『賃労働と資本』

                      [2] 『賃金、価格、利潤』

                      [3] 『資本論』

                      [4] 『資本論』

                      [5] 『賃金、価格、利潤』

                      政治経済学再入門|-|-|-|-|by ネコスキイ
                       
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